介護士に必要なのは、『科学的思考』と『芸術的創造』だ!~サイエンスとアートな要素を持った介護士はつおい。
介護士がしばしば抱える悩み、「このケアで良いんだろうか?」
自分のケアに自信が持てないのは、サイエンス(科学)に基づいていないからです。
「こういう時は◯◯をすればいい!」という何らかのエビデンス(根拠)を持っていれば、自信を持った行動ができるはずです。
しかし、介護現場では教科書に載っていないようなことが多く起こります。
机に向かって勉強しているくらいだったら、目の前の利用者との関わりの時間を増やしている方が学びや気づきを多く得られるという意見の人もいるくらいでしょう。
また、時として、専門学校を卒業したエリート介護福祉士やその道何十年のベテラン介護職員よりも、ボランティアや実習で施設に来ている素人の若者の方が利用者を落ち着かせるのが上手だったりもします。
どれだけ丁寧な介助や敬語での言葉かけ、経験値が豊富で臨機応変性の高さがあったとしても、失敗してあどけなさを感じる若者に好意を抱くお年寄りもいるわけです。
完璧を目指した科学よりも、不完全さが功を奏することもあるのが介護現場です。
それは、アート(芸術的)な印象すら感じます。
これら2つの利点を活かしたケアを行える介護士がいれば強いでしょう。
サイエンス(科学)に基づき、アート(芸術的)な人生を目指したケアを行うためのお話をします。
【目次】
介護士に必要な、科学的思考と芸術的創造。
介護士が成長しないのは、科学と非科学の間の中途半端な位置にいるからだと思います。
例えば、科学に基づいている医師は、医学の分野が発達していくのに沿って、それを勉強すれば自分の知識や技術も成長していきます。
逆に、わざわざ勉強することのない家族がケアを行うと、老人に対する理解どころか親子としての感情が邪魔をして非科学的なケアを行ってしまいがちです。
介護士は(おそらく看護も)、その間の中途半端な位置にいます。
教科書を開いて人体の構造や認知症のしくみなんかを勉強するのですが、実際の現場に向かうと全く新しい光景を目の当たりにすることもあります。
そうなると、どうしていいのかわからなくなり、看護は医者の指示に、介護は看護の指示に従うだけで、本当に適したケアが何かを自分で考える機会がありません。
(介護は家族の意向も聞かなくてはならないから大変)
そして、医者の指示が高齢者にとって良いケアではないことも往々にしてあります。
なぜなら、医療は患者の病気しか見ていないからです。
文字通り、カルテを見てその症状に対する治療や薬の処方をするだけです。
ということは、その人の人間性や性格、ニーズを把握することができる介護(や看護)の分野が、その専門性を発揮していかなくてはならないのではないでしょうか?
あなたのケアに、エビデンス(根拠)はあるか?
あなたが日々行っているそのケアには、エビデンス(根拠)があるでしょうか?
いつもやっている行動を、「これは~~という理由でやっている」と説明できることができるでしょうか?
私を含め、多くの介護職員は「なんとなくやっている」「みんながやっているから」という状態だと思います。
本当に質の高いケアを行いたいのであれば、根拠のあるケアを行わなくてはなりません。
「エビデンス」というと、「科学的証拠」と言って、科学的に立証された研究結果などを考えがちですが、ここまでも話した通り、”科学”だけが全てではありません。
介護現場での「エビデンス」は、「利用者の反応」を基準にしてもいいと思います。
確かに、すでに科学的な研究によって立証されたエビデンスをもって行動をとることは重要といえます。
しかし、その研究結果が目の前の人に当てはまるとは限りません。
そして、エビデンスのないこと、自分の知識にないこと、だからといって、臆病になり行動しないでいる人は介護士に向かないと思います。
なぜなら、高齢者は私たちより先が短いからです。
試しに行動してみた結果、目の前で笑っている、幸せでいる高齢者の反応こそが、私たち介護学のエビデンスです。
つまり、私たち現場にいる介護士が持つべきは「科学的根拠」よりも「科学的思考」です。
「こうすれば大丈夫!」という100%の自信のためのエビデンスなんか待っていないで、
「これをすれば喜んでもらえるんじゃないか」「あれをしてみたらもっと良くならないか」と実践ありきな姿勢を持つことが重要です。
もちろん、すでにある知識を持つことも重要ですが、それに基づいてどう行動するかの方が重要で、ある程度の仮説を立てたら行動に移しましょう。
正しい形で実践を繰り返した結果、その人にとっての根拠あるケアを確立させることができるのが、「科学的思考」を持った介護士です。
例えば、わかりやすい例でいうと、『下剤のコントロール』なんかがそうです。
どれだけエビデンスレベルの高い下剤があろうとも、一個人に効果があるかどうか試してみないとわかりません。
そうした、処方された薬、施されたケアに対して、利用者がどんな反応をするのか観察することもまた、介護士の専門性の一つです。
介護におけるサイエンスな要素とは、日々の試行錯誤のことです。
素晴らしい「科学的な証拠」の大発見は、研究室で生み出されるイメージを持つ人は多いと思います。
その通りなのだとしたら、研究者が部屋に閉じこもっている間に高齢者はどんどんと亡くなっていきます。
現場にいる私たち介護士は、どんどんと効果のありそうなものから試していかなくてはなりません。
そして、試行錯誤と同時に、事故を防ぐ役割もあります。(いやむしろそれが本業か)
利用者の安全と安心を守りつつも、日々コンフォートゾーン(快適なエリア)から足を踏み出し新しい挑戦や変化を取り入れていくのは、どちらかというと自分との戦いです。
科学者が大勢の人のために頭を使って研究するのに対して、私たち介護士は一人の人のために肉体と感覚に頼って研究しているようなものです。
だからといって、負担に思うことはありません。
科学者のように意識を高く持つ必要も完璧にこだわる必要もないです。
なぜなら、人の生き方に「科学的な人生」などないからです。
「科学的な人生」なんてありえない。
あなたは、「科学的な人生」を歩みたいでしょうか?
毎日の起きる時間や食事の献立や日中の過ごし方、科学的に立証された合理的な行動しかとらない人生なんて楽しそうに見えるでしょうか?
普通の人がそれをしようとしても、必ず誘惑に負けて不合理なことをしてしまうことはあると思います。
そして、その不合理さこそが人間を人間たらしめるものです。
死んだ人の意識が、なくなるのかどこかにいくのかはわかりません。
残された側の者たちは、人の死を見て、その人の人間性や生き様を振り返ることもあるでしょう。
その際には、長所や短所を含めて、人間の不完全さが目に映ると思います。
どんな良い人にも欠点や弱点はあって、どんな悪い人にも長所があるはずです。
それは、見方によっても変わるといえるのですが、目の前にいるのはその人という「個」であることに間違いはありません。
そこには、芸術性すら感じることもあります。
誰に置き換えられるものでもなく、科学のように計算された人生というわけでもなく、まさにその人の生き方だったのです。
幸せな人生に必要なのは、「完璧」より「満足感」
人間の不完全さこそがアートを感じるほど素晴らしいものだという話をしましたが、だからといって、科学的な合理性を無視することはできません。
自分の人生をどう生きるかは個人の自由ですが、プロとして誰かの介護者になるのなら、科学的に正しいとされていること(科学的根拠)を持って、その人にとって適していることを探し続けること(科学的思考)が必要とされるはずです。
しかし、血もつながってない他人の介護士によって、その人の人生を左右させるのもいかがなものかという意見も出てくると思います。
始めの方でも話しましたが、介護士という職業はこの中途半端な位置に存在するから、ハッキリとした専門性を見出してもらえず、やりがいを感じることができないのです。
もう、そんなことは割り切ってしまいましょう。
「完璧」な人生なんてありえません。
「満足感」のある人生を歩んでもらいましょう。
努力した結果、完璧を目指すのではなく、完璧を目指して努力した結果、その行いに満足感を得るような感覚です。
「これだけやったら十分だろう」と思えるまで努力する必要があるということです。
人は、「やって後悔したこと」よりも「やらずに後悔したこと」の方が心理的ダメージが大きいそうです。
その理由は、自分が行動して失敗したことなら外部の要因で言い訳することができますが、自分が行動しなかったために失敗したことの責任は自分にしかないからです。
そして、行動してみた人は「タイミングが悪かっただけ」「次はこうすすればうまくいく」と次の行動計画につなげられますが、
行動しない人はいつまで経っても「行動するべきか否か」「どうすればいいのかわからない」という状態から抜け出せません。
要は、最終的にどんな結果になったとしても、誰にも咎められないくらいの生き方をすれば勝ちということです。
とてつもなく高い山を登山して頂上にたどり着けるかはわかりませんが、登るという行いは誰にでもできるはずです。
実際に頂上(完璧)にたどり着ける人はいないでしょう。
しかし、どこまで登るか、どの方向に登るかは人それぞれ違います。
そして、たどり着いたその先が、その人の人生の頂上なのです。
振り返った時に、後悔のない歩み方をした人生であれば、終わりがどこであろうが満足できると思います。
介護士の使命
なぜか途中から、介護士の高齢者支援というより人の人生の生き方論みたいな話になってしまったので、最後に「介護士の使命」とは何かを語ってみたいと思います。
「介護士の使命」とは何か、ひとことで言うと、「代弁」だと思います。
介護士は利用者の最も身近な存在として寄り添うことになります。
その人の生活を観察するだけでなく、時にその人の目となり耳となり、思いを汲み取って共感することもあります。
その人が表現することのできないことを、介護士が代わって医療や家族に伝えてあげましょう。
病気や少しの時間の面会からはわからない、生活の中で「その人が本当に困っていること」なんかがあるはずです。
それを本人に代わって、「代弁」してあげることが「介護士の使命」だと思います。
(もちろん、介護士の主観をできるだけなくして)
認知症介護―現場からの見方と関わり学の著者の三好春樹さんも、「介護の”介”は媒介の”介”だ。」とおっしゃっています。
今回のお話に出てきたような、中途半端な位置付けにいる介護士は、それこそが専門性なのかもしれません。
残酷すぎる成功法則からも引用させて頂きます。
成功者となるために、覚えておくべき最も重要なことは何だろう?
ひと言でいえば、それは「調整すること(アラインメント)」だ。
成功とは、一つだけの特性の成果ではない。それは、「自分はどんな人間か」と「どんな人間を目指したいか」の二つを加味しつつ、そのバランスを調整することだ。
確かに、現在地と目的地の両方を把握しておかないとナビが使い物にならないように、この二つを加味するのは重要なことでしょう。
介護士というだけの他人が、利用者の人生を「調整」するなんておこがましいと思うでしょうか?
それなら、「介護の”介”は媒介の”介”だ。」という心を打たれる名言を元に、自分の主観的感情を出し過ぎないようにしましょう。
「その人がどんな人なのか」「何を求めておられるのか」ということの理解に努め、「代弁」していくのが「介護士の使命」というのが私の主張です。
自立支援をして在宅復帰、延命処置、なんかが全てではありません。
人間には科学的に完璧な人生などありえないことを自覚して、「これで十分満足だよ」と思ってもらえるように理想と現実を調整することが、介護士に求められる支援ではないでしょうか?
いくつになっても、過去よりこれからどうするかの方が重要です。
サイエンスに基づき、アートを目指した人生を歩み、歩んでもらいましょう。
閲覧ありがとうございました。