身体拘束のグレーゾーンについて。それは不適切ケアか?
介護現場には、「それ身体拘束なんじゃない?」と思わせるような行為がよく見かけられます。
自力で動こうとする車いすの人の後ろに、物を置いて転倒リスクを下げたり、
自力で動こうとするベッド臥床中の人のベッド周りに、物を置いて転落リスクを下げたり、
これらは、その人の身体を守るために行われてしまうことですが、『身体拘束』として捉えられてしまいます。
そこまではいかなくとも、少し動ける猶予を残してあげたりして、犯罪行為に至らないケースもあります。
これが、今回お話する『グレーゾーン』というもので、世の中では『不適切ケア』として扱われてしまうこともあります。
このようにして、介護職員の仕事ぶりが非難されることが時々あるのですが、悪意があってやっているのでしょうか?
そんなわけがありません。その人の命を守るという最大の目的のためにやってしまっていることです。
そして、介護士側だけの考えでケアを行うのが「不適切」だということは、多くの人の心にあることですが、人手不足が加速していく中、どうしても「身体拘束」に近い行為をしてしまいがちなのです。
自分たちの力ではどうしようもないことのせいで、仕方なくやってしまったことに対して非難されると、「じゃあお前らやってみろよ」と言いたくもなります。
それぐらい深刻な状況下で、今後も「不適切ケア」と言われないために、何ができるでしょうか?
いや、そもそも、あなたのやっているその仕事は、「不適切ケア」なんかではありません。
それを、今回のお話で証明してみせます。
お付き合い下さいませ。
【目次】
それは「不適切ケア」なのか?
あなたのケアは不適切ではない。と言いましたが、もちろん、実際に見たわけではないので、態度を改めた方がよい人も中にはいるでしょう。
しかし、多くの、事故を防ぐためだけにしているそのケアは、『不適切』ではないと思います。
車いすの後ろに物を置いたからといって、それで命が守られているなら、完全に否定できる行為ではないでしょう。
その置いた物のせいで、その人が「動けない」と気づき、ストレスを抱えて初めて「不適切ケア」と言えるのではないでしょうか?
こういう話をしていると、「本人が気づかなかったら何をしてもいいのか」という反論が出てくると思います。
その意見には、「半分YESで半分NO」と私なら答えます。
その理由を、これからお話していくわけですが、まずは『グレーゾーンの真実』について迫りましょう。
グレーゾーンの真実。
まず、『グレーゾーン』とは、「法では裁けないが、その人に不快感を与えていること」のように、白か黒かで判断できない様を意味しています。
ここまでは、みんながわかっていることでしょう。
例えば、ベッドで臥床中の人に対して、4つの柵を使って完全に封鎖すること(4点ベッド柵)は、完全に『身体拘束』となります。
特別な状況に陥らない限り、行われることはないはずです。
そこまではいかず、2つから3つのベッド柵を使った状態で、足をおろす位置に車いすを置いて、動ける範囲を少し狭めることは『グレーゾーン』として扱われます。(もちろん、それでも完全に封鎖していれば『身体拘束』となる)
この『グレーゾーン』の状態を見て、「それは不適切なケアだ!」と非難する人と、「こうでもしなきゃこの人怪我するよ!」と仕方なさを強調する人がいます。
(基本的に現場の外対現場職員の論争なわけですが)
今、( )の中でつぶやいたように、だいたいがケアを受ける利用者とは関係のないところでの論争です。
つまり、どちらの意見が正しいかは置いておいて、ケアする側の主観的な価値観で議論が交わされているということです。
「法では裁けないが、その人に不快感を与えていること」の真意を見出すのに、その人の感情は一切無視されているわけですね。
結局は、それぞれの価値観やプライドを守るために、自己主張しているに過ぎないといえます。
「それじゃあ、その人の気持ちが大事ということね!」という結論に至るのはまだ早いです。
間違いではないですが、「本人が気づかなかったら何をしてもいいのか」という疑問がまだ残っています。
それを解消するために、『そもそも、適切なケアとは何か?』について一緒に考えましょう。
そもそも、適切なケアとは何か?
「車いすの後ろに物を置く」「ベッドから動ける範囲を狭める」「薬をご飯に混ぜて服用させる」「帰宅願望の強い人から距離を置き、訴えを聞かないようにする」
などなど。
『不適切ケア』として捉えられるケアはいくつもあります。
では、これらがなくなれば、『適切なケア』ができていると言えるのでしょうか?
まだ、現在ほどの人手不足に陥ってなかった時代、利用者は順風満帆な施設生活を送っておられたのでしょうか?
そんなこともないと思います。
元々の人間的なワガママさに加え、施設での生活に不満を言う人は多かったでしょう。
なぜ、そうなるのかというと、そもそも、『適切なケア』など存在しないからです。
どういうことか説明しましょう。
まず、あなたが想像する『適切なケア』とは何でしょうか?
毎日決まった時間に優しい介護士さんがゆっくりと丁寧に起こしてくれて、その日着たい服を選ばせてくれて、食べたい物を食べたい時に提供してくれて、トイレもお風呂も自由に入らせてくれる。
このような生活を送れたら、確かに『適切なケア』が施せていると思えるでしょう。
しかし、そんなことは、現状ではほぼ不可能なわけです。
それは、「人手不足だからできない」と言っているのではなく、「集団生活だからできない」のです。
つまり、何が言いたいかというと、今回のお話で出てきたような行動の制限を『身体拘束』の一歩手前と指摘していますが、
それを言い出したら、食事時間が決まっていることなども『不適切ケア』の範囲に入ってきてしまいます。
施設で決められた規則正しい生活を送ることは、健康的でその人のためになるかもしれませんが、その人が望むものではないかもしれません(し、そのケースの方が多いです)。
毎日決められた時間に食事が出され、2時間も経てば衛生管理のため処分されてしまいます。
これのどこが「本人を軸にしたケア」なのでしょうか?
ここまで概念を広げだすと、施設でやっていることのほとんどが、『不適切ケア』として捉えることができてしまいます。
つまり、完全に個々のニーズに合わせた『適切なケア』を施すことなど不可能で、その人の生活から物理的な拘束(グレーゾーン)をなくすことはできないのです。
しかし、だからこそ、その人が生きる糧となる要因ともなりえることが、介護士なら必読書の介護基礎学から学ぶことができます。
物理的な拘束より、心理的なつながりを重視する。
今回のお話で、我々は『適切なケア』を施すために、「個々のニーズに沿ったケア」と「健康的な規則正しい生活」を提供しなくてはならないという、相反するジレンマの中で葛藤していることを解説しました。
そこで、意識の高い介護士さんなら必読といえる、竹内孝仁さんの介護基礎学という本から学びを得ましょう。
この本の中には、「規則正しい生活」という項があって、とても勉強になり今回の話にも関係しているので、一部紹介させて頂きます。
私たちの生活は時間のリズムによって刻まれている.起床から始まって食事などの行動がつぎつぎに繰り返されて就寝にいたり,これが毎日繰り返されていく.
これらの生活行動が,毎日ある程度の時間的規則に従って行われることを❝規則正しい生活❞とよんでいる.
しかし,生活の規則正しさは,多くの場合には「一般的生活時間」への従属を示している.いいかえれば,規則正しい生活とは,普通の人々がふだん行っている生活のように(時間的に)生活することを意味していることになる.
これを「時間の共有」とよびたいと思う.
つまり,規則正しい生活とは,生活を共にする人々と時間を共有することである.
同じ時間に食事をし,同じ時間に何かを楽しむという行動は,明らかに「孤立」や「孤独」を防ぐ有力な手だてであることがわかる.
つまり,規則正しい生活ー時間の共有は,その人を孤立から救い出す,といえる.
これと関連して規則正しい生活のもつもう1つの重要な要素に❝現実への適応❞がある.
~中略~
私たちは,痴呆にせよ寝たきりにせよ,❝規則正しい生活❞をケアの基本に据える.これは単に規則正しい生活が健康によいから,といったものだけでなく,「時間の共有」や現実との適応や,生活を共にする人びととの共同性(共在性)を支える重要なものだからである.*1
つまり、『規則正しい生活』を提供し(時に強要するのは)、「その人と共に生きていこう」とする意思表明だといえるのです。
もちろん、人とは違う生活を望む方もおられます。
「食事は静かな場所でゆっくり1人で食べたい」「寝る時は誰か(人や動物)と添い寝で寝たい」「お風呂は大浴場がいい(人もいれば、2人きりで話しながらがいい人も)」
人それぞれ違ったニーズがあり、その人個人の中でも気分によって変わることがあります。
これらのニーズが叶えられるかどうかより、意思表示できるかどうかの方が重要なのかもしれません。
私たちが提供する『規則正しい生活』の中で、できる範囲のニーズには応えますが、無理なことは無理だといえる関係性を持つことも1つの自立支援です。
つまり、『規則正しい生活』とは、とても関係的で社会的な行いで、個々のニーズを重視するよりも人間的な生き方になり、むしろ自立支援につながるとさえいえます。
「レクに参加したいと言わないから誘わない」「起きたいと言わないから寝かせきり」なんかは自立支援とは言いません。
後者は、相手が意志表示できない認知症の方の場合、ネグレクト(放棄)という虐待にすら当てはまります。
そして、前者の場合、その人が好きかどうかは別として、誘うという行為自体は職員側が好きにして構わないのです。
その後に選択の猶予を与えることこそが自立支援なのであって、周囲の人間関係に気を遣い、生活を共にする仲間と時間や現実を共有するかどうかの意志決定をすることが「自立」への第一歩です。
無理に集団(社会)に合わせようとするのは、個別ケアとしてどうなのかという意見もありますが、かといって、居室で孤立させることを「自立」とは言いません。
竹内孝仁さんが本の中で「孤独の解消こそがケアの基本」とおっしゃっていたように、本人の思う方向へと進ませて、放っておいたら簡単に怪我や病気してしまうような人たちを、現実世界に引き戻すことも『適切なケア』なのです。
つまり、記事の前半でお話したような「本人の気持ちを重視する」ことと、後半の「規則正しい生活を提供(強要)する」という、ジレンマ(グレーゾーン)の中にこそ、『適切なケア』が存在しているといえるのです。
グレーゾーンの中で生きる勇気。
介護現場の『グレーゾーン』は、『不適切なケア』なのか?というタイトルのお話ですが、
私なりに結論を出すと、『グレーゾーン』で葛藤している状態こそ『適切なケア』ができていると思います。
「その人が気づかなかったら何をしてもいい」とか、「それはどう考えてもしてはいけないことだ」というふうに、極端に決めつけてしまうことが間違いです。
かといって、「その人のために考え続けてあげることが大事」というふうに、こちら側の主観に重きを置くのもナンセンスなのかもしれません。
細かい話ではありますが、「自分たちはどうしてあげるべきなのか?」「その人はどうしてほしいのか?」の2つを考慮しつつ、現実的に再現可能な生活環境の整備に努めるしかありません。
記事の途中で話したような、利用者とは関係ないところでの不毛な議論はやめにしましょう。
(個人的見解をブログに書き連ねるお前はどうなんだというツッコミはなしで)
あなたのそのケアが、『不適切』かどうかは、目の前の人たちの反応を伺い続けるしかありません。
少なくとも、考えることをやめにしたらアウトということは正しいでしょう。
『グレーゾーン』の怖いところは、「良し」としてしまえば横行・悪化していくところです。
だから、辛いし、難しい現状なのです。
でも、そこが最適ポイントです。
どうか、『グレーゾーン』の中で生きる勇気をもって、自信を持って仕事に向かいましょう。
閲覧ありがとうございました。
【参考文献】