介護士に絶対必要な、ケアの本質的な3つの考え方。
ある利用者さんが言いました。
「私は生きている価値がない」と。
人は、年齢や体力の違いから生み出す価値に差が生まれますが、その人自体の価値に差をつけることはできないのが道徳とされています。
誰かがそう言ったわけではないのに、「生きている価値がない」と言われました。
果たして、何か嫌なことでもあったのでしょうか?
そうだとしたら、その人の生活環境を支える我々介護士に何か問題があるのでしょうか?
利用者さんの何気ないひとことから、自分のケアに対する自信を失ってしまうことは多々あります。
そこで、介護士に絶対必要な、ケアの本質的な3つの考え方。を得て、基盤をしっかりと立て直しましょう。
今回は、この考え方を持つだけでケアが楽に、そして向上していくようなマインドセットを3つご紹介します。(マインドセット=考え方や信念という意味)
参考になれば幸いですし、参考にしかならないと思います。
【目次】
介護士に絶対必要な、ケアの本質的な3つの考え方。
これから、3つのマインドセットをご紹介します。
『病気のせいにしない』『主張しすぎない』『欲張りすぎない』
この考え方を持つことができたら、今よりケアが楽になり、質も向上していくことでしょう。
そして、ご紹介するのは考え方に留めておきますので、実際にどう行動するかはあなた次第です。
考え方だけなら、今すぐにでも変えることができますし、無視することもできます。
しかも、あなたの応用の仕方によっては大きな価値につながる可能性もあります。
同じく現場で働く私の個人的見解も含まれていますが、ちゃんと参考文献も最後にご紹介してあります。
参考になれば幸いですし、参考にしかならないと思います。
この考え方を持った上で、どう行動するのかはあなた次第ですから。
病気のせいにしない。
まずは、『病気のせいにしない』という考え方を持ちましょう。
あなたは、介護士として、認知症やその他の病気に関する知識を深めることを促されてきたのではないでしょうか?
しかし、その知識は現実的に何かに役立ったでしょうか?
認知症の方に対しての見方が変わったり、何か気づきにつながることはあったとしても、実際の問題解決になることは少ないかと思います。
何が言いたいかというと、お医者さんが病気について理解を深めて治療するのとは違って、認知症に限っては理解しても治すことはできません。
その人が認知症だという理解があったとしても、繰り返される希望や訴え、時には暴言に腹を立ててしまうくらいです。
むしろ、認知症に対する理解よりも、自分のメンタルを正常に保つ訓練の方が必要といえるでしょう。
そして、そもそも認知症は治すものではないと私は思っています。
認知症は、老化や精神状態の変化に伴う症状のようなもので、ひとことで「病気」と表現できるものではないとさえ思っています。
これは、『認知症介護―現場からの見方と関わり学』という本を読んだのがきっかけで、考えさせられたことです。
例えば、認知症の方には、「中核症状」と「周辺症状」とがあると言われています。
「中核症状」とは、今どこにいて、今が何時で、その人が誰で、ということがわからなくなるという、その人の中の機能低下を表しています。
「周辺症状」とは、いわゆる「BPSD(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia)」のことで、「(認知症に伴う)行動・心理症状」と訳すことができます。
「中核症状」は、その人の内側にある症状で、変えることができないとされ、
「周辺症状」は、環境が要因となり現れる症状であるため、こちらにアプローチをかけるように我々は教育されてきました。
しかし、多くの(ケアの本質に興味を示さない)職員は、「認知症だから何を言っても無駄」と病気のせいにしたがり、環境(ケアの在り方)を変えてみることを試みません。
この現象を、著者の三好春樹さんは、「BPSD」という言葉の表現に疑問を持つという形で的確に説明されています。*1
しかし私は「BPSD」という表現には賛成できない。なぜなら、この表現では、〈BPS〉=行動心理症状、は、〈of Dementia〉=認知症に伴う、とされてしまうからだ。これだと、認知症とされている高齢者の「問題行動」や表現はすべて認知症のせいだということになる。
そして認知症の原因は脳だから、すべては脳に起因することになってしまう。
しかし、介護現場がその試行錯誤のなかで明らかにし、私がこの本でまとめ、主張しているように、認知症の「問題行動」の最大の原因は便秘である。つまり脳の中ではなく、日常生活の中にこそ原因があるのだ。
あるいは、原因のひとつは、今日の夜勤は誰か、ということである。つまり「問題職員」のせいか、あるいは高齢者と介護職の相性という人間関係の中に原因があるのである。
そして、この続きの文章に、私はハッとしました。
〈of Dementia〉と表現することで、そうした生活や関係の中の原因に目が届かないことになるだけではない。高齢者が心身ともに落ち着くための豊かな現場の工夫が無視されてしまい、科学物質で人間をコントロールしようとする方法、つまり薬に頼ることになるのではないか。
じつは、「BPSD」のDを、Dementiaではなくて、Drag(=薬)の略だとすればいいのではないか、と私は考えている。これは皮肉ではない。薬の効きすぎや副作用で作られた「問題行動」や、「問題行動すらできない状態」にされている高齢者が続出しているのだから。
以前、『精神薬』への批判というタイトルで記事を書きましたが、*2
このお話の中でも出てくるように、”問題行動”の対応は、柔軟な姿勢で試行錯誤を繰り返すしかありませんし、それが一番楽でもあるのです。
「認知症だから何を言っても無駄」と病気のせいにして考えるのをやめてしまうのは、楽なように見えて《何も改善しない》という辛い道を歩むことになるといえます。
もちろん、”問題行動”の原因には認知症や精神的なものも含まれますが、それ以外にその人の性格や人間性に問題があることまで認めてしまいましょう。
お客様は神様、利用者様の尊厳を守る、ということに縛られていたら、”問題行動”の原因が全て病気のせいになってしまいます。
それで間違った対応(薬の過剰投与)を続けるくらいなら、病気や人格的な特性を全て含めて、その人のありのままの姿として捉えましょう。
主張しすぎない。
さぁ、続きまして、『主張しすぎない』が2つ目のマインドセット(考え方)です。
これも、実は『認知症介護―現場からの見方と関わり学』から学んだことです。
今度は、著者三好春樹さんのひとことで言い表すことができます。
介護の”介”は媒介の”介”だ。 ~認知症介護―現場からの見方と関わり学
介護士の本来やるべきこととは、「何でもかんでも至れり尽くせりにしてあげる」ことではなくて、「家族や医療、その他の人間関係とを媒介する」仲介者ともいえる立ち位置に立つことです。
利用者の方を一番身近で観察している介護士が、その人の気持ちをその人に代わって伝達してあげる必要があります。
そのため、自分の価値観や感情を表に出し過ぎる人は、それがノイズ(雑音)ともなりえるのです。
つまり、『主張しすぎない』を簡単に言い換えると、『主観的感情を出し過ぎない』ということです。
あなたは、その人の最も身近に寄り添い、その人にとって大きな影響力を持つ存在ですが、過干渉にならないことを意識する必要があります。
「そんなことわかってるよ」と言いたいかもしれませんが、これがまたできてないことが多く見られるのです。
例えば、トイレに行くかどうかの選択や、ご飯を食べるかどうかの選択で、「身体のために」と強引に連れていこうとすることがあります。
しかし、少しトイレに行くのを我慢したり、食事を残したところで、死にはしません。
それなのに、強引に介助しようとするのは、「業務を終わらせないといけないから」とこちら側の都合もあるからです。
それじゃあ、その人の意向通りに全てを動かせばいいのかというと、そうはいきませんよね。
その人に好き勝手やられては、簡単に怪我や病気になってしまいますし、周りの人に迷惑をかけることもあるでしょう。
その人の意向通りだからといって、排泄や食事を我慢しすぎるのも、身体によろしくはありません。
そこで、メンタルが強い人がやめた13の習慣という本から、素晴らしい表現をお借りしたいと思います。
人を支配するのではなく、影響を及ぼそう。*3
『主張しすぎない』というのは、「主張していけない」という意味ではありません。
「あなたの意向は尊重する。でも、こうした方が良いと思う」と、その人のためを思った提案を心がけましょう。
その方が、相手はこちら側の主張を聞き入れやすくなることは、心理学的にもわかっていることです。
介護士は利用者の方に、支配ではなく良い影響を与えることを意識しましょう。
欲張りすぎない。
『マズローの欲求階層説』をご存知ですか?
人間の欲求は五段階のピラミッドのように構成されていて、低次欲求から高次欲求へと順に満たされようとする欲求のことです。
一番低い欲求から、①生理的欲求②安全欲求③所属と愛の欲求④承認欲求⑤自己実現欲求とされています。
下位の欲求が満たされると、次の段階の欲求が満たされることを望むわけですが、福祉に携わる方なら、馴染み深い説かと思います。
しかし、この『欲求階層説』に従って他者をケアする上で、みんなが勘違いしていることがあるように思います。
それは、利用者を幸せにするには、上位の欲求である承認や自己実現の欲求を満たしてあげようとすることです。
それ自体は間違っていないのですが、一度説明したように、低次欲求を満たしてから高次欲求を目指していく必要があるのです。
つまり、生理的欲求(食事や排泄)も満足に満たされていない人の自己実現や承認欲求を満たすための自立支援に励むのは早すぎるわけです。
よく、介護現場では、その人に役割を持ってもらうとか、社会的なつながりを意識してもらうために地域との密着性を高めるとか、社会的参加を通じてその人の承認欲求なんかをくすぐろうとしますが、
大胆な表現をすると、”おしも”に心配がある状態での社会的交流は苦痛でしかないとは思いませんか?
まずは、日常生活上での生理的・安全欲求を満足にさせるところから始めないといけません。
だから、介護現場こそ、業務上の問題点や職員負担の軽減など、細かい部分に気を配らないといけないのです。
それなのに、施設の経営者といえば、外に向かって良い顔するので一生懸命で、ケアの現場には興味を示しません。
誰も頼りにする存在がいないから、自分たちが体を張って現場を回すしかない状況。といえば、共感できる職員さんもいることでしょう。
なぜか経営者様への悪口を言ってしまっていますが、ここで悪者となっているのは、ないものねだりになっている現代の価値観です。
介護職関連の情報に触れていると、「手取り15万円で辛い」などという声が聞こえてきます。
しかし、月15万円もあれば、1人の人間が生活を維持するのに十分な金額です。
ミニマリストと言われる人達は、自分の生活費をできる限り削減して、月10万円以下で生活しているというくらいです。
結局、SNSなんかの発達のせいで、有名人や他人なんかと自分を比較しやすくなってしまったのが原因で、不幸を感じやすくなっているわけです。
私たちは、すでに今ある幸せ(五体満足など)に気づかなくなり、もっと幸せになろうとする領域にまで欲求が満たされているわけです。
逆に言えば、現代では当たり前とされている最低限の欲求(食事や排泄、清潔の保持等)が満たされていないことがどれだけ辛いことかは、曖昧にでも想像できると思います。
つまり、私たちの仕事は、最低限の暮らし、つまりはその人にとっての当たり前を支えるところから始めることです。
それが、『欲張りすぎない』という考え方(マインドセット)を提案した所以です。
「当たり前の提供」こそが、本質的なケア。
いかがだったでしょうか?
介護士に絶対必要な、ケアの本質的な3つの考え方。でした。
『病気のせいにしない』
認知症が悪いという立場をとってしまえば、何も改善できなくなってしまいます。
『主張しすぎない』
その人とそれ以外とを媒介する立場として、良い影響力を持つことに意識して支配欲をなくしましょう。
『欲張りすぎない』
意識を高く持つのもいいですが、最低限の欲求を満たすところから始めないといけません。
とてもありきたりで当たり前な考え方ですが、最も重要で最も忘れられがちな3つの要素ともいえます。
結局、やることに変わりはないじゃん。という人は、自分のケアに自信を持って良いのでしょう。
余計な情報や周りの意見に流されず、目の前の人のありのままの姿を見つめ、まずは当たり前なことを提供するところから始めましょう。
それが、介護士にとっても利用者にとっても、お互いが求める本質的なケアにつながると思います。
まずはそこから始めましょう。一緒に頑張りましょう。
閲覧ありがとうございました。
【参考文献】