認知症の人の気持ちなんてわからない?介護職員は、利用者の味方でなくてはならない。
【目次】
介護職員は、「いざというとき頼れる仲間」
あなたは、「認知症の人の気持ちなんてわからないよ」と思うことはないでしょうか?
しかし、「介護職員は、利用者の味方でなくてはならない」というプロ意識や福祉の精神を感じることもあり、人からそう教わることもあります。
それなのに、我々の介護を拒否する利用者の方がおられるのも事実です。
正直、生活費を稼ぐためにやってる仕事なのに、介護が好きといっても全員の利用者に好意があるわけでもないのに、
介護職員の介助行為を攻撃とみなし、私たちのことを加害者のように扱う利用者の方がおられるのが現実です。
ここまでの事実があっても、今回のお話では「介護職員は、利用者の味方でなくてはならない」と主張します。
これは『認知症介護―現場からの見方と関わり学』の著者の三好春樹さんもおっしゃっていることです。
(というより、ここの見出しがこの本からの引用なのですが)*1
認知症老人は、なにより「仲間」を求めているのだということは、仲間を得たときのその表情が雄弁に物語っている。とすれば、認知症老人の介護に携わる人に必要な資質は、老人から「あっ、この人は仲間だな」と思ってもらえる人だ、ということになるだろう。
おそらく、どの介護現場でも、「ああ、なるほど」と納得できるようなスタッフがいるはずだ。資格も経験もないし、勉強しているとも思えないスタッフが、なぜか認知症老人を落ちつかせる力を持っている、ということがあるだろう。おそらくその人は、認知症老人にとって「仲間」だと感じられる人なのだ。少なくとも自分にとって脅威ではない、そんな雰囲気を持っている人のはずである。
したがって、資格や専門家であることが態度に出ている人ほど、認知症のケアには向かないことになる。
(中略)
専門家であることに意味がない、などと言っているのではない。いざというときに発揮できる専門性を持っているのは必要なことだ。しかし、そのいざというときをつくらないためにこそ、普段は専門性を背景に隠して、「仲間」でいるべきなのである。
これは、『3種類の仲間ー③いざというとき頼れる仲間』という項目でお話されていたことですが、
他にも、『①共感できる仲間』として、自分と同じように困り、自分と似ていると感じるような認知症の人や、
『②規範を示してくれる仲間』として、自分と近い存在だけれども、面倒をみてくれたりアドバイスしてくれるような認知症のない人、
などといったように、認知症の方には仲間が必要であることを強く強調されています。
『③いざというとき頼れる仲間』が、我々介護士にあたるわけですが、冒頭でお話した通り、そんな私たちを加害者扱いする利用者の方もおられるわけです。
そこで、認知症の人の気持ちに対する理解を深めて、介護職員が本来あるべき姿(いざというとき頼れる仲間)になれるお話をします。
まずは、なぜ、味方でなくてはならないのか?という疑問から解決していきましょう!
「介護士」対「利用者」ではうまくいかない。
先ほど引用させて頂いた文章、「少なくとも自分にとって脅威ではない」は重要なポイントです。
例えば、利用者の方が、「家に帰らせてくれ」と言ったとしましょう。
介護士として、家に帰らせると危険だということを理解させなくてはならない、という意識のある人は、「家には誰もいないから」「ここにいなくてはならない」といったように、説得しようとすることでしょう。
しかし、それで利用者の方が納得することは稀です。
納得したとしても、また帰宅願望は繰り返されるでしょう。
何度も繰り返される訴えに、介護士の側もイライラしてきます。
それが伝わってか、表情に出てしまっているのか、利用者の方もだんだんと融通がきかなくなっていきます。
このような状態に陥ってしまう原因は、そもそも、「介護士」対「利用者」で会話をしてしまっているからです。
もちろん、利用者の身をお守りするプロとして意識を持たなければならない介護士ではありますが、普段は専門性を態度に出さず「仲間」でいる必要があるのです。
ということは、理想的な対応とは、利用者に家に帰ってはいけないことを理解させようとするのではなく、ここにいたいと思わせる対応をすることではないでしょうか?
楽しいレクリエーションやおいしいご飯を用意して、「◯◯さん、ここにいると楽しいですよ」と感じさせる方が効果的だということです。
もちろん、それでも忘れて、帰宅願望が復活することはありますが、少なくとも、熱中している間は帰りたいとは言いませんし、
「事実は忘れても感情は残る」という認知症の方にとって、「家に帰れない」というネガティブな感情よりも「ここにいると楽しい」というポジティブな感情を残していった方が、効率的にも良いといえるでしょう。
「利用者の味方でなくてはならない」というのは、何も利用者を好きになれというのではありません。
自分の業務や周りに悪影響を及ぼさないためにも、その人に脅威を感じさせない工夫が必要だということです。
介護士は、意識を高く持つ必要はない。
「介護士」対「利用者」という立場で対立することがうまくいかない理由を、心理学の視点からも考えてみましょう。
一つ前の見出しでお話した、「利用者に家に帰ってはいけないことを理解させようとする」ことがなぜ間違っていたのかというと、利用者の心理に『心理的リアクタンス』が芽生えてしまうからです。
『心理的リアクタンス』とは、「行動を強制されたり自由を奪われた時に反発したくなる」心理のことです。
例えば、大人の意見や教育に反抗しようとする、まだ社会に適応することを覚えていない若者がわかりやすい例かと思います。(覚えることが良いことだとは思いませんが)
これは大人になった私たちにもよくみられます。
私個人がよく感じる例でいうと、うさんくさいセールスの電話を対応している時などです。
「このサービスは凄く良いですよ!」「今だったら割引できます!」とメリットばかりを押し付けられても、むしろ魅力は下がる一方です。
せめて語尾に、「~というサービスがあるのですが、実際に使えそうでしょうか?」とアドバイスを求めるべきです。(これは『アドバイスシーキング』といって、相手を気持ちよくさせる話法)
そのアドバイスに答えることで、その選択肢に関与したことになり、むやみに反発しなくなります。
「少し話でもきいてみようか」と思わせることができたら、「サービスを利用するかしないか」ではなく、「利用すること前提で、AのプランかBのプランか」の選択肢を与えます。
こうやって、客にコントロール可能性を感じさせて、『心理的リアクタンス』を解除していくのが効果的だといわれています。
『心理的リアクタンス』による弊害とその対処法を解説したわけですが、これは、職員であるあなた方に向けて言いたいと思います。
今説明したような心理は、反発心の強い認知症高齢者の方だけではなく、人間という生き物全般にみられる心理です。
だから、「優しくしなければいけない」とか「ケアの向上を目指さなくてはならない」などと、意識を高く持つことを強制してしまっては辛いと思います。
なぜなら、それでうまくいかないことの方が多いからです。
優しくしようとしてあげたのに加害者扱いされれば辛いですし、部下や後輩にケアの向上を促せば反抗心が芽生えるかもしれませんし、私たち介護士は意識を高く持ち続けることが良いとは限りません。
『認知症介護―現場からの見方と関わり学』の三好春樹さんがおっしゃるように、
いい介護は、意識の高い人がするのではない。意識が高く”人権”を説教したがる人たちは、排泄ケアなんかはしないものだ。大切なのは意識の高さではなくて、無意識の豊かさなのだ。
私も、今回のお話で「味方でなくては”ならない”」と言っていますが、それはむしろ強制ではなく提案です。
今まで、上司や先輩からの目を気にして、利用者の方と”人間的な会話”をしてこなかったのではないでしょうか?
研修で教えられた機械的な会話や建前だけの関わり方で、うまくいった試しがあるのでしょうか?
これからは、どうあるべきかを考えない、ということを私は提案します。
介護士としてどうあるべきかなんて、利用者の方にとってはどうでもよいことです。
その人がどうしてほしいのかを、その時々で肌で感じ取っていきましょう。
その人との間から境界線をなくすことだけ考えていれば、自然と、何に困っているのか、何を求めているのかがわかるかもしれません。
これは同時に、利用者の側の『心理的リアクタンス』を解除することにもなります。
利用者がむやみに反発しないために、職員が無駄なストレスを抱えないために、味方でいることが重要といえるでしょう。
あなたは、認知症の人をバカにできるほど、しっかり認知できているのか?
ここまでのお話を読んで、
「介護職員は、利用者の味方でなくてはならない」と言われても、認知症の人の気持ちなんてわからないよ、
認知症で何がなんだかわからなくなっている人との間から境界線をなくして、本当に共感できると思っているのか?
と、疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。
もしかしたら、「認知症の人には何を言っても無駄だよ」と日々感じている人もいるかもしれません。
しかし私たちは、認知症の人をバカにできるほど、しっかり認知できているのでしょうか?
ここで、認知症の人たちを評価する前に、自分たちの認知のレベルを見つめ直すことをしてみましょう。
あなたの身近にある過った認知の例として、『後知恵バイアス』というものがあるかもしれません。
言葉からどういう意味なのかがわかるかもしれませんが、後になって「こうなることはわかっていたよ」という人が典型例です。
あなたは、上司や親に、「君がそうなることは予想していた」と言われた経験はないでしょうか?
私も上司に、「あぁ、失敗するんじゃないかと思って様子をみてたんだよね。やっぱり失敗しちゃったかぁ。次は気を付けなよ」と、なんでもお見通しオーラで話してくることにイライラしていたことがよくあります。
「それ失敗する前に教えてくれよ」と言いたいところではありますが、その上司は『後知恵バイアス』で認知がおかしくなっているだけなので、意味はありません。
そして、私たちの認知がおかしくなっている例で面白くなるのはここからです。
今、あなたは、身近にいる『後知恵バイアス』にハマっている人を思い浮かべて、「バカだなぁ」と考えていたことでしょう。
そう、人間は他人を評価する時は冷静で正確な判断を下せるものですが、自分自身のことは棚に上げていることが往々にしてあります。
私たち自身も『後知恵バイアス』にハマって、「うわぁ、今日嫌なことがあると思ってたけど、本当に起こるとはなぁ」なんておかしな認知が生まれたりするはずでしょう。
逆に、自分事として考えられたり、指摘されて不快に思った方はラッキーです。
『バイアス』を解除するには、自分の認知が歪んでいることを自覚するのが一番だからです。
つまり、他人のことをバカにしている暇があったら、自分の姿を見つめ直すべきで、私たちは認知症の人をバカにできるほど立派な認知力を備えていないわけです。
しかし、なぜ、人間は『後知恵バイアス』にハマってしまうのでしょうか?
いくら歪んだ認知とはいえ、他にも原因や可能性が考えられるはずなのに、100%の確証は持てないとわかっているはずなのに、「私は予知していた」なんてドヤ顔で言うことができるのでしょうか?
わからないことは「わからない」と言った方が、責任を持つ必要もなくなるため、得な気がします。
それなのに、自分の認知を信じて疑わないのは、何か原因があるのでしょうか?
といった、今私が書いた文章が答えです。
どういうことかというと、人はとかく「原因」を求める生き物なのです。
「わからない」ということが苦痛に感じて仕方ないのです。
急に幸運な出来事が起きて、「日頃の行いが良いからだ」と考えたり、
不運なことに見舞われたら、「神様のいたずらだ」「僕が何か悪いことでもしたのか?」と思い込んでしまいます。
あなたも日頃、「わからない」と言うことが苦痛に感じてしまっている人たちと、よく対面していることでしょう。
認知症の人に「今日のお昼ご飯何だった?」と、職員は悪意なく試すようなことをよくします。
「んー、お魚やったかねぇ」と返事が返ってきます。
しかし、実際はカレーです。似ても似つきません。
その日は魚のメニューなんてないし、前日にすらなかったとしても、認知症の人はそう答えます。
これは、間違えたことを記憶してしまっているのではなく、完全に忘れていて、自分の中にある記憶や情報の材料から、無理やり辻褄を合わせたといえます。
このことを『作話』と言いますが、「わからない」と言うことが苦痛で、勝手な認知を生んでしまうという意味では、むしろ人間的に平常な反応です。
つまり、記憶力の低下という点では認知症が原因ではありますが、話をでっちあげて『作話』をするのは、私たち健常者と言われる立場の人間となんら変わりません。
逆に言えば、その人の認知の歪みさえ適切に直すことができたら、記憶はなくても正しく認知することはできます。
「認知症だから何を言っても無駄」というのは、認知症を相手にするプロとして能力の低さを言い表しているに過ぎません。
自分と認知症の人とで認知力のテストをすれば勝てますでしょう。しかしそれは、小学生と数学のテストをして競うのと同じくらい恥ずかしいことです。
どちらの例でも同じく言えるように、その人と自分とでは確実に違う人間かもしれませんが、全く別の生き物ではないということです。
認知症の人(または幼き子供)と自分との間に境界線を引き、その向こう側にいるものとして扱うのはやめにしましょう。
「認知症だから何を言ってもわからないだろう」という人こそ、自分自身が認知症か、少なくとも正しい認知ができているとは言えないでしょう。
認知症で何が何だかわからなくなっている人に、「ありがとう」と言われても嬉しくない?
ここまで、「介護職員は、利用者の味方でなくてはならない」
「認知症の人の気持ちなんてわからない?いや、自分たちもおかしな認知している時あるよ」というお話をしてきました。
どれだけお話をしたところで、認知症の人に共感なんてできないよ、と思ってしまう人はいらっしゃることでしょう。
それでも、私は、認知症の人との間から境界線をなくすことを勧めます。(もちろん業務中だけでいい)
認知症の人から「ありがとう」と言われても、何が何だかわからなくなってるんだから、きっと本心ではないだろう、ほら、数分後には忘れてるじゃないか。
ということがあったとします。
しかし、今回お話したことを思い出してください。
認知症ではない人でも、正しく認知できていないことは往々にしてあります。
健常者と言われる人であっても、その「ありがとう」は本心からではない場合があります。
相手には何か企みがあって言っているかもしれないということです。
あまりこの話題を続けすぎると、人間不信になってしまいかねませんので、まとめに入りたいと思います。
今回のお話はとにかく、「あなたと利用者さんは別の生き物ではない」というお話でした。
わざわざ過剰な愛を注ぐなんて大げさなことはしなくていいです。
ただ、認知症の人には(もちろん人間なら誰でも)、「仲間」が必要です。
境界線をなくして、味方でいることを唯一心がけましょう。
閲覧ありがとうございました。
【参考文献】