あなたは、誰かの心の拠り所になれているか?
あなたは、辛いことがあった時、誰かの傍にいたい、またはいてほしいと感じたことはないでしょうか?
嫌なことがあって、「今は一人にしてくれ」と言う人もいますが、そういう場合はたいていが、自分でなんとかできる問題で恥ずかしい姿を見られたくない時なんかだと思います。
どうしようもなく不幸を感じたり、これ以上ないくらいに辛い状況に陥ると、「誰か助けてくれ」と人とのつながりを求めたこともあるでしょう。
世の中には、実際にそういう状況の中にいる人は多くいるはずです。
ということは、自分以外にもそういう人がいるわけだから、自分から誰かの傍にいてあげて、支え助けてあげる立場に立つことも必要なのではないでしょうか?
特に、他者を支援する立場にいる我々介護士は、誰かの心の拠り所になってあげられているかを考え直したいものです。
そこで、認知症の方の本当の気持ちを読み取り、最も必要な支援が何かを考えていきたいと思います。
自分の仕事にやりがいや価値を感じなくなってしまった介護士の方は、ぜひとも、お付き合い下さいませ。
【目次】
認知症は悪い病気か?
認知症は、本当に悪い病気なのでしょうか?
認知症といえば、記憶障害、見当識障害、実行機能障害、つまりは、物忘れや家族や職員の顔と名前、今が何時でどこにいるかもわからず、昔はできていたことができなくなってしまうというような症状が出ている状態のことです。
そんな、「わからない」「できない」ことが増えた方は、一般的に考えておかしいことをやってしまいます。
自分の身に危険が起きる可能性があることも考えず歩き回り、目的を忘れてしまったがために永遠と歩き続けたり、
目の前にあるティッシュが何かと判別できずに、食べ物と間違えて口に入れてしまったり、
時には、自分の排泄物を手で触ってしまうことも、、、
自分の中だけに留まらず、他人に危害を加えてしまうことだってあります。
そんな、一般的に考えたら「おかしい」と言われる行為をしてしまう、認知症は悪い病気なのでしょうか?
もしくは、認知症という背景があるだけで、その行動特性自体は我々健常者と言われる人間たちと変わらないのではないでしょうか?
例えば、私たちが幸せになるためには、真面目に(真面目じゃなくても)コツコツと仕事してお金を稼ぎ、家族や大切な人との人間関係を大切にする必要があるのに、それを犠牲にして夢を追いかけ、いつの間にか自分が求めていたものが何かわからなくなったり、
体に悪いとわかっているのに、甘いおやつやお酒に手を出してしまったり、
人が排泄物を触っていることに嫌悪感を感じる割に、自分たちは有名人の炎上ニュースや誰かの陰口というもっと汚れているものに触れてしまっているのです。
つまり何が言いたいかというと、認知の仕方に違いが出ただけで、「おかしい」行動をしているのは我々も変わらないのではないか?ということです。
それを踏まえた上で、認知症の方の本音の部分にせまり、我々が行うべき最も必要な支援とは何かを考えていきたいと思います。
悪態をつけてくるのは、信頼されている証?
人は、「おかしい」行動をする生き物だという話をしましたが、中でも認知症の方の行為に理解できないと思ってしまうことがあるとすると、
それは、お世話してくれているはずの存在に悪態をつける様です。
つまり、何も悪いことをしていない介護士(または家族)に、文句を言ったり暴言暴力を行ってしまうことがあるのです。
そう思わないように努力してはいるのですが、「お世話してやってるのに」という感覚が心のどこかにあるのか、「なんでそんなことが言えるのか」と不信な気持ちになってしまうことがあるのは、私だけではないと思っています。
これを、「普段介助してもらってることを忘れているんだろう」と捉えることもできますが、私は違う視点に立って考えてみることを始めました。
わざわざ自分に対して感情をぶつけてくるのは、自分のことを信頼しているのだろうということです。
「信頼」というと、なんか胡散臭いですし、いくら信頼性のある相手でも好き放題言っていいわけではありませんから、そういう可能性もあるかもしれないという範囲に留めて、続きを読んで下さい、、最後にちゃんと回収します。
例えば、あなたは、本当に嫌いな人を相手にして不満をぶつけたり議論しようと思うでしょうか?
おそらく、心許せる相手か話を聴いてもらえる人を相手にするはずです。
そして、実際に利用者の方に「私をここに閉じ込めてどうする気だ!帰らせてくれ!」と誘拐犯扱いされたこともあるでしょう。
しかし、実際に誘拐されたとして、その犯人に真っ向から抗議するでしょうか?
いくら認知症の方といえど、自分の話を聴いてくれて助けてくれる可能性のある人を判別する能力が残っている人はいると思います。
(実際、横に座っている他利用者に帰宅願望を訴えることは少ないでしょう)
そのため、「この人に言えば何かしてくれるだろう」という期待が少なからずあるということです。
そして、帰宅願望のある方の中でも2種類あって、本当に家に帰りたい人と不安で落ち着かない人とがいると思います。
ここで言いたいのは、後者の方の場合、話を聴くだけで落ち着かれることが多くあるということです。
それなのに、多くの介護職員はその人を説得しようとして口論になり、「何を言っても無駄」と関わることをやめてしまうことが往々にしてあるのです。
人間同士がわかり合うためには、相手の気持ちを理解しようとすることが不可欠なはずなのに、なぜ、自分が伝えたいことばかりに焦点を当てるのでしょうか?
それを説明してくれるのに最適な引用が見つかりました。
哲学者で認知科学者のダニエル・デネットによれば、人間の脳には進化の過程で「戦争のメタファー」が組み込まれていて、他者との不一致を戦争という観点で理解し、行動する回路が備わっているからだという。
引用元:残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する
つまり、自分とは違う意見を持つ相手を敵と判断し、お互いにいかに自分が正しく相手が間違っているかの証明に必死になるということです。
この「戦争のメタファー」が職員の脳にも組み込まれていて、自分たちがお世話してあげているのに反発されると苛立ちを覚えるわけです。
ただ、介護職員さんには優しい人多いですから、「世話してやってるんだからここにいろ!」と抑えつけるような言い方をする人は少ないでしょう。(0ではないのが悲しい現実ですが、、)
しかし、その優しさが故に、「戦争のメタファー」が起動された職員は、「いやそうじゃなくて、今日はここにお泊りなんです!」と、相手の話を聴こうともせずに説得に入っていってしまうのです。
「今日は家には誰もいませんから」「ここだったら安全だから」という理由付けをしたところで、その危険性や安全性を把握できないから施設を利用しているわけで、理解してもらえることは少ないです。
ただ、自分の思いや不安を聴いてくれるだけで落ち着くのに、職員たちは主張を伝えることに必死で、それがうまくいかないと「もう何を言っても無駄」と関わることすらやめてしまうことが大いにあります。
「何を言っても無駄」なのではなく、「何も言う必要はない」のです。
もっというと、「ただ話を聴いて、相手が求める返事をしてあげる」のが一番でしょう。
これはその他の人間関係にも言えると思います。
もし、仮に自分の方が正しく口論に勝利したところで、相手は自分に対して反感を持つでしょう。
どちらの意見が正しいか、どちらの主張が通るのか、を軸に話し合いが行われれば、お互いにわかり合えないという望んだ結果とは逆の未来が待ち受けているだけです。
人間は環境次第。
少し、余談を挟みたいと思います。
唐突ですが、あなたの長所は何でしょうか?
また、短所は何でしょうか?
ちなみに、私の長所は相手の話を黙って聴くことだと思っています。
逆に、短所は自分の話をすることや自分から話しかけることです。
これらの特徴は、自分の思いや話を聴いてほしい介護現場や飲み会の場では役に立つかもしれません。
しかし、面接や人前で話す時など自己アピールが必要な場面では弱点でしかありません。
つまり、何が言いたいかというと、人の特徴は環境や状況によって有利にも不利にもなるということです。
認知症高齢者の方のやることが「問題行動」として目に映るかもしれません。
しかし、環境を変えれば、状況や見方を変えてあげれば、問題にはならないのかもしれません。
むしろ、認知症の方を受け入れる前提で作られた介護現場であるはずなのに、利用者の行動が問題となってしまう環境の方にこそ問題があるのではないでしょうか?
では、認知症高齢者と言われる方々を受け入れる環境として、適しているのはどんなところでしょうか?
心の拠り所が欲しい。
利用者の方が悪態をつけたり自己主張したりするのは、それを受け入れてもらうことを期待しているからだと思う。という話をしました。
あなたが、いつも使っているサービスや通っている美容院に注文やレビューを行う割に他の会社や自分に関係しないことには一切口出ししないように、自分を受け入れてもらえる可能性や期待があるから自己表現できるのだと思います。
逆に言えば、自分を表現できない環境に身を置くのは苦痛でしょう。
自分が知らないことだらけの世界で生きていくなんて想像しただけでも辛いはずです。
そして、認知症高齢者の方は、それが常なのです。
明確な記憶がなく、自分の話を聴いてくれる存在もなく、ここにいてもなんとなく不安だから、安心できる場所や人を求めるのです。
気が付いたら知らない場所、知らない人達、思い出せない記憶、私たちは見慣れているかもしれませんが、普通に考えたらパニックに陥ってもおかしくありません。
何でもかんでも受け入れろと言っているわけではありません、職員の身も心も持ちませんから。
ただ、その人が安心できる環境を求めた時、その拠り所になれるようにしておきましょう。
利用者にとって、職員は環境である。
利用者にとって、職員は環境です。
それは、食事や排泄のタイミングが介助によって変わる物理的な意味も含みますが、利用者の個性や行動への見方や対処方法による精神的な意味合いも含みます。
職員のケアや思いやりの質によって、利用者の満足度が上下してしまうのが現状です。
その人にとって適した環境をデザインしていくように、自分の介護職員としての在り方を調整していきましょう。
ただ、中には利用者を庇いきれないような行為もあって、職員が被害者になってしまうこともあります。
しかし、介護職員は利用者を咎めることができません。
(我慢できないと、プロとして失格と言われるくらいです)
そういう場合は、会社組織が職員を守ってほしいものです。
利用者にとって、職員が環境であるように、職員にとっては職場や会社が環境なのですから。
そして、今回お話したように、人間は環境や状況次第で変化するものです。
誰もが受け入れてもらえるような環境作りこそが、介護業界のゴールではないでしょうか?
閲覧ありがとうございました。