介護施設ではムリ!?利用者が幸せになる介護サービスとは?
どうせ働くのであれば、目の前の人に笑顔でいてほしくないですか?
優しい介護士さんは、利用者さんの笑顔が好きです。
毎日同じような業務を繰り返す中、どうせだったら目の前の人を笑顔にさせたいし、安心させてあげたいし、幸せにしてあげたいと思います。
この安全を守る使命以上のサービス精神は、お金に変えられない価値があると思います。
しかし、それが故に介護の分野は3Kから成長しないのかもしれません。
気持ちよりも、結果として残せる何かが必要です。
それが現在は、親の介護をできない人に代わって支えられるよう、介護施設という建物で集団生活を送って頂くサービス業を提供しています。
しかし、介護施設という建物では利用者を幸せにはできないのではないか?と、私個人は感じているわけです。
それはなぜか?ということと、利用者が幸せになるための介護サービスとは何か?についてお話していきたいと思います。
本当に目の前の人のためになるケアを考えたい方、現在のサービスに不満や疑問を感じる方は、ぜひともお付き合い下さいませ。
【目次】
利用者が幸せになる介護サービスとは?
それでは、お話を始めていきましょう。
今回は、介護施設サービスについてネガティブな意見をしますが、頭ごなしに批判するつもりはありません。
(自分自身も施設で働いているから、そんなことしてたら自尊心保てない)
しかし、施設サービスの間違いについていくつか言及したいことがあります。
「こんな立派な仕事に文句のつけようがない」という人がいるとしたら、それはおかしな話です。
なぜなら、実際に現場にいる利用者含め介護士という”人々”が、幸せそうではないからです。
それは、そういう見方をしているからそう見えるだけとも言えますが、実際、仕事に対する不満がある人の方が多いでしょう。
そういった不満を解消するためには、サービスの在り方を考え直さないといけないでしょう。
そのためにまず、施設サービスの間違いについてお話していきます。
なぜ、「人のためになる」この仕事で不幸になるのかというと、それは「人のためになっていない」からです。
施設サービスの間違い。
「人のためになっていない」という、施設サービスの間違いが何かというと、形式にこだわり過ぎたことです。
文字通り、「人のため」というより「形式のため」にあるのが介護施設です。
どういうことか説明します。
現在、様々な種類の介護施設があります。
特別養護老人ホームや老人保健施設、有料老人ホームやグループホームなんかもあります。
同じ施設の中でも、ユニットケア方式を採用していたり、個室だったり4人部屋だったり、その形式も様々あることでしょう。
しかし、そんなことは重要ではないのです。
もちろん、人手不足解消ために施設の在り方や、機械やシステムの導入を考えることはいいのですが、それが直接利用者の幸せにつながるというのは大きな間違いです。
つまり、形式にこだわるがあまり、利用者のためになるケアやサービスが何なのかということがなおざりになっていることが問題なのです。
それを考えるきっかけにしてくれたのが、三好春樹さんの介護の専門性とは何かという本です。
一部引用させて頂きます。
問われているのは、介護の中身を変えていくことなのである。食事ケアをどうするのか、排泄ケアをどうやるのか、入浴ケアをどう変えるのか、痴呆への関わりをどうするのか、という方法論が求められているのである。
しかし、介護の中身まで語れる経営者は皆無といってよいだろう。介護は具体的な方法論の創造ではなくて単なる介護力でしかない、せいぜい介護力プラス倫理観ぐらいにしか考えていない人が、大半なのだ。
そんな具体的な方法論を介護職と共に創造していこうという能力も気持ちもない施設経営者は、その課題から逃げるように、安易な、しかし介護現場をより混乱させる方法に飛びつきつつある。
この文章を読んだ時、「現場職員は頑張っているのに、なぜ発展していかない?」「相手が認知症といえど、なぜ安定したケアやサービスの確立がされない?」といった疑問や不満が解消されました。
確かに、本当に利用者のためになるケアとは何か、それを支える職員のためになるサービスの在り方とは何か、を考える前に、
崇高な理念や建物を設立することにこだわり、そしてそれ以上を求めようとしない向上心のなさが目立つ経営者を見ると、介護現場や業界の発展が乏しいのも納得です。
形式にこだわるがあまり本質からズレてしまっている良い例として、
例えば『老健』は、『在宅復帰』を前提として考えられていますが、私には疑問に思うことがあります。
「『在宅復帰』を目指す割に、『生活感』がない」ということです。
認知症の方にとって、環境の変化が大きなダメージになることはみなさん周知のことのはずです。
本当に自宅で自立した生活を目指すならば、自宅でリハビリをした方が良いのではないか?と勝手に考えています。
そこで、『老健』の強みは何でしょう?
それは、医療や他職種との密接な連携です。
じゃあ、『老健』こそ『ターミナルケア』の充実を図った方が良いのでは?というのが個人的な見解です。
『終の棲家』として利用するのが『特養』だというイメージが先行してしまうと、それだけ選択肢が狭くなるということです。
建物や形式のルールに従ってケアを決めるのではなく、その人にとって必要なケアを見出してから、それに応じたサービスの利用をするべきです。
形式より内容の方がはるかに重要である。
つまり、建物ありきになってしまって本質からズレているのです。
三好春樹さんも、
ケアが規模を決める、逆ではない。
ということをおっしゃっていました。*1
「特養だから~~」「老健では~~」というように、形式がケアを決めてしまってはいけないのです。
「◯◯さんには~~というケアが必要だから、△△という環境が適している」と、内容に形式が合わせなくてはなりません。
そういう意味では、その人を取り巻く環境、つまりは家族やケアマネや相談員が、その人に対する理解を深めなくてはならないのです。
そのために制度を利用するのであって、制度を先んじて考えてしまえば、そりゃ息苦しい人生を送るはめになるでしょうよって話です。
どれだけ綺麗に清掃されていようがお花畑が見えていようが、そこが刑務所であれば刑務所でしかないように、見栄えや形を変えたところで中身が変わってなかったら同じなわけです。
何かをするために必要な環境を作るのはいいことですが、環境ありきではダメです。
どこかへ出かけるために車に乗りますが、車に乗るためにどこかへ出かける人は相当な車好きの人くらいでしょう。
残念ながら、介護施設に入るために老いる人は少ないし、実際に老後になったとしても好きで介護施設に入る人はほとんどいません。
では、自ら好きで利用したくなるような介護サービスがあれば最高ではないでしょうか?
老後が楽しみになる介護サービスを。
老後の自分の理想の姿は、人それぞれ違うことでしょう。
「認知症になんかならず、誰の世話も受けずに自分の力で生きていきたい」
「寝たきりでもいいから、家族に迷惑をかけずに施設で静かに暮らしたい」
「老後になる前に、元気なうちに死にたい」という人も中にはいると思います。
しかし、認知症にならないよう、定期的な運動や脳トレ、健康的な食事や睡眠といった生活習慣を送っているかといえば、そうではない方が多いです。
それは、将来のことを何も考えていないというよりは、むしろ不安だからこそ非合理的な不健康な生活を送ってしまうことが、心理学的にもわかっています。(恐怖管理理論)
喫煙者の方に対しても、「タバコはこれだけ身体に悪いからやめとけ!」と言えば言うほど、その人はストレスを感じて喫煙率が上がってしまうそうです。
もし、健康的で元気な老後人生を歩みたいなら、「今から努力しろ!」などと言わず、「あなたの老後はこれで大丈夫」といえるくらいの万全の準備をして、安心を与えてあげることの方がよっぽど認知症予防になるのではないでしょうか?
では、老後が楽しみになる介護サービスとは一体どんなものでしょうか?
それこそ、形式ではなくその人個人のニーズを出発点にしなくてはいけません。
個人個人のニーズを把握して、それに合ったサービスを展開させる必要があります。
もちろん、その中には職員も含まれていて、みんなが求めるもののために変化を厭わない姿勢を持つことが重要です。
もう、箱に入れて後は言うことに従っていればいいというような悪夢は繰り返さないようにしましょう。
結論。「人間関係の充実」
今回のお話の結論としては、「人間関係の充実」をさせることです。
利用者が幸せになる介護サービスに必要なのは、箱ではありません。
機械やシステム、建物も好きなだけ使えばいいですが、それは人対人を充実させるためです。
結論が「人間関係の充実」となったのは、その人個人のニーズを引き出す必要があるからです。
そういう意味では、引き出す側の職員や他関係者も幸せでなければなりません。
今までのように、行き場のない人を施設に招き入れては、現実とのギャップに苦しみ、誰かが過度な負担を負わざるを得ない状況を作るのはやめにして、
自らの意志で選択したくなるような介護サービスを提供していくことが求められるでしょう。
最後に、「施設に入れれば大丈夫」という考えに対する否定と、「個別ケアの重要性」を伝えるために、以下の引用をします。
私は個室があることに反対はしない。また、大部屋がいいとも言っていない。個室か大部屋かという二者択一的発想からくる「全室個室」という画一的人間観に異議を唱えているのだ。赤ん坊がそうであるように、老人、特に痴呆性老人は必ずしも「個室」を求めてはいないということは、現場の介護職なら当然のことのはずである。
個室がいい人もいれば、大部屋での雑魚寝が落ち着く人もいる。ふすまや障子で区切られている空間がいい人もいる。ある人は、いつもは個室だがときどきは添い寝でないと眠れないなんてこともある。
どうして、そうした人間の多様性や多面性を認めようとしないのだろうか。全室個室をいいものと信じて疑わない人たちの、その貧弱で画一的な人間観に比べれば、われわれ介護現場の人間観ははるかに多様で豊かである。なぜ彼らは、自分たちのニーズを、平気で子どもに、ついで老人に押しつけるのだろうか。権力とまでくっついて押しつけようとするのは、正しいことだから押しつけてもいいという過剰な正義感からだけだろうか。
私には、彼らの恐怖が見てとれる。彼らが老人に個室を押しつけるのは、老いに対する恐怖からではあるまいか。つまり、近代的自我を失って、生きものへと回帰していくことへの恐怖である。
だから、目の前で近代的自我から脱出していく老人たちの姿を認める訳にはいかないのだろう。夜になると、人の声や灯りを求めて部屋から出てくる痴呆性老人たちを「個室」に閉じ込めようとするのは、じつは、狭い近代的自我という枠の中に人間を閉じ込めておきたいという、彼ら自身のニーズなのである。介護の専門性とは何か
個人的に、この主張は腑に落ちまくりです。
確かに、我々は認知症になった人を自分とは違う存在だと見てしまいがちです。
しかし、むしろ、人間という動物本来の姿に戻っていくという表現の方が適切かもしれません。(これを巷では「赤ちゃんに戻る」と言う)
現代社会に対する認知や適応のレベルが下がっていく人たちを、介護施設という箱に収めてきた我々は、それぞれの意志を表示させる猶予を作ってこなかったことに反省するべきです。
これまで、家では介護できない人を受け入れる以上の機能を持たなかった介護施設は、少しずつ淘汰されていくことでしょう。
家族の都合や家から近いという理由だけで、知らないコミュニティへと入れ込まれるのは誰も望まないことでしょうから。
個別ケアや人間関係の充実がなされるようなサービスが重宝されていくことは間違いないでしょう。
そこには、職員側の負担軽減までもが考慮された、誰もが幸せになる仕組みがあるはずです。
という夢物語(半分は現実的かつ本気)のようなお話でした。
閲覧ありがとうございました。
【参考文献】